ルールとマナー

 

とある車いすユーザーがイオンシネマに対しなんか言ってるのが炎上してるんで、その一件について考えたことを備忘録的に書き残す。

 

・「合理的配慮」の範疇か?⇒今回のケースに関しては自分は範疇外だと思う。内閣府リーフレットを確認した感じだとたぶんそう。

・(まだ義務化まで半月くらいあるが)「義務」として守られなければいけないライン(ルール)と、「こういう思いやりのある社会になってほしい」的な理想・願望(マナー)とは分けて考えなくちゃいけないんじゃないかと思う。特にそういうケアを本業としていない商売(映画館とかね)においては「義務」のラインを守っているかどうかだけ見ればいいと思う。

・では、時に「合理的配慮」を超えた配慮をすることがいいことかというと、(配慮を受ける側にとってはいいことなんだろうけど)ケアを本業としない商売においては、自分はNOだと思う。なぜかというと、今回みたいに(ルールとしてではなく良心的にやっていたこと)それが「普通」になってしまって、「あそこではやってくれたけど」という魔法の言葉を伴って、どんどんハードルが上がっていきかねない。

イオンシネマはどうすればよかったか?と考えると、最初に介助の要求に応じてしまったことと、支配人?が「ほかの映画館に行ってくれ」と言ったことの二つは悪手だったかなと思う。「地震とか災害が起きたときに安全が保証できない」とかいくらでも突っぱね方はあったように思うし、「今度から専用スペースを使ってくれ」以上のことを言う必要はなかった。

・ポストしたインフルエンサー()も、この問題が「ルール」の範疇をはみ出すことは自覚してたんじゃなかろうかと思う。だからルールを逸脱した対応をされた「怒り」じゃなくて(配慮されなくて)「悲しい」という表現になったんじゃないかと。「こうあってほしい」と思うのは自由だが、「~すべき」、もっといえば「~しなければならない」とは全然レベルの違う話。

・『こんな夜更けにバナナかよ』という話でも(読んだことはない)、確か無茶を言うのは介助ボランティア(自主的、逃げようと思えば逃げられる)に対してであって、普通にサービス業の賃労働をしている店員とか対して無茶な要求をするという話ではなかった(はず)。サービス業の店員というある意味でかなりの「弱者」(生活が懸かっていて逃げられない)に対して、客というある意味で「強い」立場をいいことに過当な要求をするのはどうなんだろう。「弱者」と「強者」なんておかれた場所次第で簡単にひっくり返るのでは?

 牛丼を頼んだら、ある程度清潔な器に規定の量飯と具が入っていれば多少雑でもそれでいいではないか。牛肉と玉葱が整然と並べられている必要はないし、それをたかだか一杯400円の牛丼屋で要求するのは明らかに行き過ぎている。

 

 

 

 

 

映画「夜明けを信じて。」ちょっとした感想

 

結論から言うと、今まで自分が見たの幸福の科学の映画の中では一番退屈だったような気がします。(極力気を付けますが、ネタバレがあるかもしれません)

 

理由①:ほぼ過去作のリメイクだという印象を受けた。大筋としては、2年前の「さらば青春、されど青春」から、主演の俳優が変わっただけという感じ。まあその主演俳優が離反した息子の宏洋だったということもあり、その映画は教団としても黒歴史化して封印しておきたい代物だろう。いずれにせよ教祖の自伝的な性格の強い作品だったので、「穢れていない」役者を使ってできるだけ早く作り直したいと思うのは自然なのかなと。また、豊田通商名古屋で出会ったヒロイン(清水富美加)、東大で気持ち悪いポエムを送った初恋?の相手(長谷川奈央)のキャストも一緒。既視感しかなかった。まあ、主演の演技は宏洋よりよっぽどマシだなとだけは思います。

 

理由②:自画自賛がすごい。ある種のプロパガンダ映画だから仕方ないとはいえ、2時間以上も浴びせられると流石に食傷気味。個人的な感想だが、リメイク?元の前作よりも自画自賛がえげつなくなっている感じがした。サラリーマン時代の有能描写がやたらと多かったからそう感じたのだろうか。役者が教祖とは似ても似つかない、いい声の、シュッとした顔が濃い目の男前であることも含めて。

 

理由③:音楽は相変わらずクソ。詩の密度とメロディーが合ってないとおもうんですよね。清水富美加の歌声は個人的には割と好きなんで、まともな歌でちゃんと活かしてあげてほしいですね。

 

理由④:これは単なる違和感なのかもしれませんが、教祖役が会社を辞めて宗教に専念するシーンが、清水の舞台から飛び降りる(二度目の死)みたいな描写だったと思うんですが、映画内での描写だけ見ても、親父がやってくれてる出版事業が軌道に乗って、それだけで食っていく目処がついたから会社を辞めたようにしか見えなかったんですよね。神の思し召しにしたがって、すべてを捨てて宗教の世界に飛び込む、という感じではないんですよ。いうなれば、副業として宗教をやっていて、それで食っていける目処が立ったから会社を辞めた、というだけの話であって、そこから感じられるのはすべてを捨てて宗教に邁進する純粋さや潔さではなくて、計算高さとかしたたかさだと思うんですよね。まあ商社で働きながら本を書くバイタリティ自体は純粋にすごいなと思いますけど。

 

理由⑤:ギャグパートが序盤に来てしまい、楽しみがなかった。最近の幸福の科学映画では(サヤカ脚本になってからかな?)、特別出演として大川一家(教祖、妻、娘)がちらっと出演することが半ば定番化していて、本編の内容がどんなに退屈なものであっても、その一瞬の笑いを求めて映画館に足を運んでしまうカルトウォッチャーも少なくない(私見)。しかしながら今作では、けっこうな序盤に「特別ゲスト」(笑)が出てきてしまい、その楽しみを早々に奪われた。彼らの出演場面は「ジョーカー」なのだから、脚本を書く側はもっと切りどころを考えた方がいいと思いました(余計なお世話)。

 

おわり。

 

 

『幸福の科学』(秋谷航平著、泰文堂)を読んだ

 

 幸福の科学は「新宗教」というカテゴリーの中でも極めて新しい部類に属し、オウム事件の影響もあって新しい宗教に対する警戒感も強い昨今にあって、堂々と政治進出をするまでに力を伸ばしてきた、クッソ興味深い宗教団体である。

 であるからこそ、この『幸福の科学』には今までの興味本位のジャーナリスティックなアプローチでは得られないような内容を期待していた。

 「はじめに」でも、幸福の科学という宗教団体に対して「内部取材」をなすことの意義が述べられていて、通俗的幸福の科学論では得られないであろう、「何がそこまで人びとを惹き付けるのか」という謎に対する問いが得られるのではという期待に胸を膨らませた。(取材に対してウェルカムであったという情報から嫌な予感がなくはなかったが)

 

 しかしながら、結果としては、通俗的な(一般に流布している)幸福の科学論以上のものは得られなかったというのが正直な感想である。

 教祖(「総裁」)がある種の学歴コンプを患っていて、そのことを反映するかのような、学歴社会の競争を勝ち抜いてきた人をうまいこと刺激するシステムが幸福の科学の要であるというようなことは、しばしば指摘されるところである。こうした印象が増幅されたような感覚はあれど、基本的な幸福の科学像を塗り替えるようなものではなかった。

 

 以上のことから思うに、幸福の科学論にとって決定的なのは、宗教組織としての「幸福の科学」論ではなく、端的に「大川隆法論」なのではないかということである。

 おそらく、大川隆法の「東大卒」というブランドが事態をややこしいものにしているのではないかと思う。「東大卒」だから、合理的な組織論をもって宗教団体を運営しているに違いない、といったようなバイアスが、幸福の科学の本質を覆い隠しているのではないだろうか。

 端から見ると、幸福の科学は完全に大川隆法というカリスマをトップとした、ワンマン教団である。東大卒というブランド性がカリスマ性に一役買っている部分はあるが、そのカリスマ性の本質は大作(短大卒)や尊師(高卒)と大きく変わらないんじゃないか。

 ふみかと結婚するんじゃないかといわれていた長男(青学卒)が実質的に教団を追放され、三男(東大)が次男(早稲田)を押しのけて一番期待されているんじゃないかといった印象もうける。東大卒を後継に指名するようなブランド化路線を視野に入れているのだろうか、本人すら、自分が東大卒だから人々に受けた、と思って(勘違いして)いるんじゃないかとも思える。
 答えは大川隆法がガチでエルカンターレ化(違うか)する時にわかるかもしれないね。得てしてえげつない跡目争いが起こるもんだが…。
 
 おわり

 

 

『説得――エホバの証人と輸血拒否事件』(大泉実成著、草思社文庫)を読んだ

 

この題名から一般的に期待するのは、一般メディア以上の綿密な取材を通じた、当該事件に対する深い、時には別の観点からの情報と、それに基づいて披歴される筆者の意見だろうと思う。


しかしながら、本書は題名に掲げられている事件(輸血拒否事件)それ自体をテーマとしたルポルタージュであるというだけでなく、エホバの証人に対する潜入ルポルタージュという側面も持っており、むしろ後者のほうがいろいろな意味で貴重な記録なのではないかという気さえする。


そもそも、エホバの証人のある種の閉鎖性故か、事のセンセーショナルさに比してその情報量は多くなく、一般的にはその教義と一般的な規範との間にある齟齬と、それを反映した社会との軋轢とがただただ強調されるばかりであるように感じる。事件のこうした性格のため、事件についてよく知ることと、教団にある程度接近し、教団をよく知ることとがある程度表裏一体とならざるをえなかったのかなと思う。


そのような観点からすると、教義云々ではなく、実際の信仰がどのようになされているかということがある程度まで明るみに出されている意義は大きい。外側から見ることができる教義と、社会との接点だけに視角を限ってしまうと、「ヤバい教義をしつこく伝道してくる狂人集団」といったような一面的な見方から逃れるのは難しく、なぜ輸血を拒否するまでに至ったかということについて、信者でない人をも納得させるような答えは得難くなるだろう。


実際に文中では、緊密で、嘘がなく、温かい信者の間のやりとりや人間関係、互助組織的な面(聖書の記述や伝道の忙しさのため、経済的に余裕がないことが多いようだ)も指摘されていたように記憶している。こうした面は、社会との接点にみられる頑強さ(輸血や武道の拒否に著しい)という世間一般に広く持たれている印象からは想像できないものである。このような事情に鑑みれば、教団のあり方が現代人の心の満たされない部分にうまく作用し、それが魅力になって教勢を拡大しているのだということも理解できるように思う。


ただ、この問題の難しさは、単なる医療と信仰との関係性にとどまらない。この一件で命を落としたのは子供だったため、子供の信仰のあり方や親(の信仰)との関係性にまでその範囲は及ぶ。


この難しい問題に対して本書が明確な答えを与えているわけではないように思うが、子供の信仰に関しては、一定の年齢まではある種の信仰上のゆらぎが存在する、もしくはそうなる可能性があることが示されていると読んだ。しかしながら文中では、時に「司会者」との対話、問答の中で、時に「長老」の巧みな方策により、その芽は力を削がれ、教団に都合のいい方向に回収されてしまっている。端的に言えば、中学生くらいまでの年代に関しては、「明日の自分も信仰しているかわからない」ところが非常に大きく、たとい本人の意志であるにしても、それによって命を落とすことがあってはならないということになるだろうか。


そうした中で、文中でも提示され、おそらく筆者も賛意を示しているであろう、一定以下の年齢の子供には本人や親の意志にかかわらず輸血するというガイドラインは、適当な落としどころなのかなとも思った。

 

おわり