『説得――エホバの証人と輸血拒否事件』(大泉実成著、草思社文庫)を読んだ

 

この題名から一般的に期待するのは、一般メディア以上の綿密な取材を通じた、当該事件に対する深い、時には別の観点からの情報と、それに基づいて披歴される筆者の意見だろうと思う。


しかしながら、本書は題名に掲げられている事件(輸血拒否事件)それ自体をテーマとしたルポルタージュであるというだけでなく、エホバの証人に対する潜入ルポルタージュという側面も持っており、むしろ後者のほうがいろいろな意味で貴重な記録なのではないかという気さえする。


そもそも、エホバの証人のある種の閉鎖性故か、事のセンセーショナルさに比してその情報量は多くなく、一般的にはその教義と一般的な規範との間にある齟齬と、それを反映した社会との軋轢とがただただ強調されるばかりであるように感じる。事件のこうした性格のため、事件についてよく知ることと、教団にある程度接近し、教団をよく知ることとがある程度表裏一体とならざるをえなかったのかなと思う。


そのような観点からすると、教義云々ではなく、実際の信仰がどのようになされているかということがある程度まで明るみに出されている意義は大きい。外側から見ることができる教義と、社会との接点だけに視角を限ってしまうと、「ヤバい教義をしつこく伝道してくる狂人集団」といったような一面的な見方から逃れるのは難しく、なぜ輸血を拒否するまでに至ったかということについて、信者でない人をも納得させるような答えは得難くなるだろう。


実際に文中では、緊密で、嘘がなく、温かい信者の間のやりとりや人間関係、互助組織的な面(聖書の記述や伝道の忙しさのため、経済的に余裕がないことが多いようだ)も指摘されていたように記憶している。こうした面は、社会との接点にみられる頑強さ(輸血や武道の拒否に著しい)という世間一般に広く持たれている印象からは想像できないものである。このような事情に鑑みれば、教団のあり方が現代人の心の満たされない部分にうまく作用し、それが魅力になって教勢を拡大しているのだということも理解できるように思う。


ただ、この問題の難しさは、単なる医療と信仰との関係性にとどまらない。この一件で命を落としたのは子供だったため、子供の信仰のあり方や親(の信仰)との関係性にまでその範囲は及ぶ。


この難しい問題に対して本書が明確な答えを与えているわけではないように思うが、子供の信仰に関しては、一定の年齢まではある種の信仰上のゆらぎが存在する、もしくはそうなる可能性があることが示されていると読んだ。しかしながら文中では、時に「司会者」との対話、問答の中で、時に「長老」の巧みな方策により、その芽は力を削がれ、教団に都合のいい方向に回収されてしまっている。端的に言えば、中学生くらいまでの年代に関しては、「明日の自分も信仰しているかわからない」ところが非常に大きく、たとい本人の意志であるにしても、それによって命を落とすことがあってはならないということになるだろうか。


そうした中で、文中でも提示され、おそらく筆者も賛意を示しているであろう、一定以下の年齢の子供には本人や親の意志にかかわらず輸血するというガイドラインは、適当な落としどころなのかなとも思った。

 

おわり