『幸福の科学』(秋谷航平著、泰文堂)を読んだ

 

 幸福の科学は「新宗教」というカテゴリーの中でも極めて新しい部類に属し、オウム事件の影響もあって新しい宗教に対する警戒感も強い昨今にあって、堂々と政治進出をするまでに力を伸ばしてきた、クッソ興味深い宗教団体である。

 であるからこそ、この『幸福の科学』には今までの興味本位のジャーナリスティックなアプローチでは得られないような内容を期待していた。

 「はじめに」でも、幸福の科学という宗教団体に対して「内部取材」をなすことの意義が述べられていて、通俗的幸福の科学論では得られないであろう、「何がそこまで人びとを惹き付けるのか」という謎に対する問いが得られるのではという期待に胸を膨らませた。(取材に対してウェルカムであったという情報から嫌な予感がなくはなかったが)

 

 しかしながら、結果としては、通俗的な(一般に流布している)幸福の科学論以上のものは得られなかったというのが正直な感想である。

 教祖(「総裁」)がある種の学歴コンプを患っていて、そのことを反映するかのような、学歴社会の競争を勝ち抜いてきた人をうまいこと刺激するシステムが幸福の科学の要であるというようなことは、しばしば指摘されるところである。こうした印象が増幅されたような感覚はあれど、基本的な幸福の科学像を塗り替えるようなものではなかった。

 

 以上のことから思うに、幸福の科学論にとって決定的なのは、宗教組織としての「幸福の科学」論ではなく、端的に「大川隆法論」なのではないかということである。

 おそらく、大川隆法の「東大卒」というブランドが事態をややこしいものにしているのではないかと思う。「東大卒」だから、合理的な組織論をもって宗教団体を運営しているに違いない、といったようなバイアスが、幸福の科学の本質を覆い隠しているのではないだろうか。

 端から見ると、幸福の科学は完全に大川隆法というカリスマをトップとした、ワンマン教団である。東大卒というブランド性がカリスマ性に一役買っている部分はあるが、そのカリスマ性の本質は大作(短大卒)や尊師(高卒)と大きく変わらないんじゃないか。

 ふみかと結婚するんじゃないかといわれていた長男(青学卒)が実質的に教団を追放され、三男(東大)が次男(早稲田)を押しのけて一番期待されているんじゃないかといった印象もうける。東大卒を後継に指名するようなブランド化路線を視野に入れているのだろうか、本人すら、自分が東大卒だから人々に受けた、と思って(勘違いして)いるんじゃないかとも思える。
 答えは大川隆法がガチでエルカンターレ化(違うか)する時にわかるかもしれないね。得てしてえげつない跡目争いが起こるもんだが…。
 
 おわり